私が他者からの承認を求めるのは、
自分で自分を受け入れられていないから。

私は、自分で自分のことが認められないばかりか、
たとえ自分が認めたとしても
誰かに認めてもらわないと意味がないとさえ思っていた。
誰かに認めてもらうことでしか安心できないでいた。

“自分で自分を認める”というのは、
「私ってすごい!えらい!」と自分を褒めることではなく、
むしろその反対で、

自分の“ダークサイド”を認識し、
それが自分の中に存在する(し続ける)ことを
許せるようになるということ。

つまりは、
“自分のダメな部分”を愛するということなのだが、
小さい頃から愛されるために
自分のその“ダークサイド”を必死に否定し禁止してきたわけで、
いきなり真逆のことをしろと言われても
すぐに「はいそうですか」なんて簡単にできるわけがない。

できるわけがないけど!

それは…不可能ではない。

だって、
それを乗り越えた張本人が
目の前にいるのだから。

人は、自分の中にある“ダークサイド”の存在を認め、
【それも含めて丸ごとの私】として愛することができるんだと、
Saoriさんがちゃんと身をもって証明している。

だから、今すぐには難しくても、
きっとできないことじゃない。

100m走だって、カール=ルイス以降に
9秒台が続発しとるがな。←あ、年がバレる(笑)

「難しい」で止まっていた私のマインドは、
それを可能にした人を目の当たりにしたことで
「難しい」の壁を越え「できる」世界に照準を合わせた。

いつか私も…!

本やネットから知識を得るのも悪くはないが、
生のセッションを受ける醍醐味が、
ここにあると私は思っている。

Saoriさんを見て、
私は「できる」ほうの世界に行ってみたいと思った。

なぜなら、
こっちの世界はもうじゅうぶん味わったから。

もちろん、これを読んでいるあなたが
まだ「難しい」という世界にいたいのなら、
それはそれでいい。

そうあらねばならない理由や
そこにい続ける何らかのメリットがあって、
それが今のあなたには必要だからだ。

でも、そんなあなたに私はあえて問う。

それ、本当にこれから先も必要なこと?

陰と陽が表裏一体、それがこの世界の仕組み。

陰だけでもない、陽だけでもない、
その両方が揃って初めて【私】という完成された人間。

私たち人間は、
ダークサイドを併せ持っているのが自然なことであって、
一点の曇りもない清廉潔白な人格でい続けるなんて不可能だ。

AKBだって、家に帰れば舌打ちしながら
鼻くそをほじるぐらいはしててもおかしくない。

今の私なら、
人間が常に綺麗な状態でい続けるなんてありえないし、
だからこそ人間なんだってわかるけど、

かつての私は、
そうならなくちゃいけないと思っていたし、
そうなれない自分を徹底的に罰していた。

でも、こうも考えてみた。

そんな芸当はもう神の領域…ではなく、
神様ですら怒り狂って世界をぶち壊したり、
ヒステリーを起こして引きこもったり、
嫁がいるのに浮気したりする奴がいる、と。

神様ですらそうなのに、
まして私たち人間など、
ぐちゃぐちゃのドロドロで当然なんじゃないか。

っていうか、
神様は誰よりも自分に正直に生きてるような気が…汗。

私は、ダークサイドを発生させないという、
神様をもってしてもできない無理難題を
自分に課していると気付いたことで、
すっと肩の力が抜けるのがわかった。

そして、
「神様だってそうなんだから。」と、
チョモランマ級の我がプライドを一切傷つけることなく、
私は敗北宣言を出すことに成功した。

自分を赦すための言い訳。

後にも先にも、
これほど正しい神様の使い方を
私はしたことがない。

ちなみにSaoriさんは、
「心電図と一緒。」という格言を残している。

ずっとニュートラルのままでいることはない。
プラスのほうへ動くために、
いったんマイナスのほうへ振れる動きをとる。
それが普通。

そのパターンがリズム良く繰り返されることこそが、
平常運転の状態。

だから、ネガティブな側面もあっていい!

失敗すること、
未熟であること、
迷惑をかけること、
嫌な思いをさせられたと怒ること、…

そんな経験をするのは私が人間だからであって、
「しょうがない、それも私だ。」と、腑に落ちた。

(念のため言っておくが、
違法行為やモラルに反する行いを
正当化しているわけではない。)

それからの私は、
自分のイヤな部分や、そこに由来するネガティブな感情を、
つまりはポジティブとネガティブを行ったり来たりする自分自身を
否定する必要がなくなった。

どんな私も、私。

私が、私の闇を、受け入れた。