なんで私が変わらなくちゃいけないの?
それって結局ネガティブになっている私がダメってことじゃん!?

自分の過去に一応の整理が付いて大きな重しがやっと取れたとは言え、
そういう納得のいかなさが完全に無くなったわけではない。

ふーっと湧き出る自己否定や無価値感。

まだある。
まだ出てくる。

大きかろうと小さかろうと、
傷という傷を1つ残らず抱え込んできたのか、って
そんな自分に可笑しみすら感じるけれど、

これからの私に必要なことは、
こうやって出てくる癒されきっていない感情を
丁寧に拾い上げて、
1つ1つ燃やし切ることなんだと、
改めて現在地を確認した。

なぜ(私を傷つけ苦しめた相手ではなく)私が、
私の心の傷を癒すために、
わざわざ自分の時間とエネルギーを費やさなければならないのか?

この問いの答えは、これを書いている今、
多分こうじゃないかと思っているのは、

そもそもネガティブな感情というのは、私に限らず、
何かのきっかけがあればいつでもすぐに湧いてくるもので、
生きている以上は「無し」にできないものなんじゃないかということ。

陰と陽の両方があるのがこの世の常で、
大事なのは、そのバランスを取ること。

つまり、それを上手く扱うスキルを身に付けることが、
私たち人間が一生の中で学ぶことの1つなんじゃないかということ。

「私に限らず」というところがポイントで、
事情やきっかけは異なるにせよ
ネガティブ感情に苦しむ経験は
みんな多かれ少なかれあると思っている。

それは私を苦しめた相手とて例外ではない。

誰にどうされたからとか、
誰が何をしてくれなかったからとか、
そういう過去の出来事はあるにせよ、

その相手でさえ、自分と同じように
何らかのネガティブな感情に苦しみ、
乗り越えようとしている(してきた)一人の人間なのだ。

そういう意味では、自分も相手も、同じなんだ。

だから私たちは、お互いに、あるいは巡り巡って、
影響しあいながら色々な人間的成長のきっかけを
与え合っているに過ぎないのではないか。

だから、(法にもとづく罪の償いはまた別の話として)
誰かとの関係性の中で私が抱いた感情は私自身のものであり、
その感情を処理する責任もまた、
自分自身にあるのではないか。

なぜならば、私の人生の責任者は私だからだ。

私がこういう風に考えることができるようになったのは、
ネガティブな感情があることと、
それによって苦しいことは別だと
Saoriさんが教えてくれたことが大きい。

感情には、ポジティブやネガティブだけでなく、
ゼロ地点・ニュートラルという状態がある。

今まで私が苦しかった理由は、
【ネガティブからゼロに戻る】という概念が無かったことと、
ゼロに戻す方法を身に付けていなかったからだ。

この【ゼロに戻る】ことこそ、Saoriさんの言う
「感情を感じ切ること」に他ならない。

子ども時代に教えてもらえなかったのか
忘れてしまったのかはわからないけれど
(罪悪感がそうさせたような気もする)、

とにかく、今までの私は
【ゼロに戻る】という発想がなかったがために、
いつまでもネガティブの泥の中に沈むことしか知らなかった。

これが私の苦しみのメカニズム。

無理にプラスの方へ盛っていく必要はない。
だけれども、最低限、
ゼロになるまではちゃんと満たすこと。

「満ちる」という経験。
これが難しい。

自分で体験しないと、自分が体感しないと、
外側からでは絶対にわかりえない感覚だろう。

本当は…本当は、親や周りの大人が
それを子どもに味わわせて教えていくことかも知れない。
子どもに精神的な自立の力を付けるために。
(ここの部分は、自分の子育てでしっかり意識しておこうと思う。)

けれども、親は親とて完璧な存在ではなく、
あるいは彼らの事情によって、
どうしてもそこが十分にできないこともあるかも知れない。

とは言え、親じゃなくても、
こうしてSaoriさんを頼り、教わることができたのだから、
あとは実践していけばいい。

これは完全に“スキル”なので、練習が必要。

今まで何十年とそれを知らずに生きてきたぶん、
それだけ気長に取り組むつもりでいたほうがいいだろう。

だけど“スキル”は、練習すれば必ず上達するものでもある。

だから、やるか/やらないか。

そして、どうなりたいのか。

人生が私に問いかけている。

もうちょっとお手柔らかにお願いしたかったです…(´;ω;`)

と、神様に文句の1つも言いたくなるが、
そういう宿命を選んだのもまた、私自身だ。
自分自身の学びのために。