Saoriさんとのセッションは、
ゆっくり話を聞いて(聞き出して)もらえる、
私にとって貴重な時間だ。
自分をさらけ出さないようにして
自分を守ってきたはずなのに…
「知ってもらいたい」という感覚になっているから
不思議だ。
私の話からSaoriさんが何を感じ取って
どうガイドしてくれるのか?
第三者が私を見た時
私の人生はどう映るのか。
そんな好奇心もある。
だけど、まだうまく出せない。
慣れていないから。
「ゆっくりやっていきましょうよ、大丈夫ですよ。」
とSaoriさん。
女神様かよ(笑)
溜めてきた感情の炙り出しにいよいよ
取り掛かっていく。
子ども時代に私が何を思って
どんなものに興味を持っていたか
時間をかけて振り返る。
甘えたかったよね、
褒めてほしかったよね、
抱っこしてほしかったよね…
そんな私の隠れた思いを
Saoriさんが私の代わりに言語化してくれた。
そして、
私には親から受け継いできたgiftがある、
とも。
今だから白状するけれど、
「それはそうかも知れないけど…」と、
どこか自分のことには思えず、
Saoriさんのセリフを聞き流している自分がいた。
自分の心が、“肝心な部分”をシェルターで囲って、
感情を感じないようにしていた。
“それ”を認識してしまうと、
せっかく頑張って堰き止めたダムが
決壊してしまうような気がして。
感じないままのほうが、平和なのに…。
親への思いを探ろうとする自分と
感じないままでいようとする自分とが
静かに拮抗していた。
7年前、テレビで見かけた整体院が
わりと近くにあることを知り、行ってみた。
そこでの施術は痛くなかった。
触られている感覚もあまりなく、
「ここは痛い?」と聞かれるたびに、
「特に何も感じませーん」と答えていた。
すると、
「あなたの筋肉は鉄筋コンクリート状態で、
固まって動かない。それだけじゃなく、
鋼鉄の板でコーティングしているかと思うほど
表面が硬くて、表面で全部跳ね返してくる。
施術が奥の筋肉まで届かない。」
と指摘された。
どうやら私は、
名実ともに“鎧”を着ていたらしい(笑)
その整体師さんによると、
通常、状態が悪い箇所は痛みを感じるけれど、
その痛みを通り越すほどに悪くなると、
何も感じなくなるのだそうだ。
これを麻痺と言う。
痛みを感じる段階のほうが、まだまし。
感じないのは、圧倒的にやばい…
***
身体と心は、そっくり。
整体院での出来事を思い出しながら、
私はそう確信した。
そして、“肝心な部分”を誰にも(自分にさえも)
触らせないようにして生きていることを、
改めて認識した。
そんな自分が哀れで、滑稽だった。
カウンセリングが整体と異なるのは
自分の意志で心のシェルターを開く点にある。
そもそも
感情を捉えることもままならないわけで
これはとても難しい作業に思えた。
(Saoriさんは、感情の解放はゆっくりでいいと言っている。
ピンとこなくても、「今はこうなんだな」と流してOKなのだそうだ。)
実は私は、
「満たされない感覚を
いつも心のどこかで感じている自分は、
どこかおかしいんじゃないか?」と
思っていた。
とにかく、じわーっと纏わりつく
得体の知れない欠乏感や孤独感が
いつも私を見張っていて、
心がスッキリ晴れることがなかったから、
こんな状態は普通ではなく、
変なこと・あってはいけないことだと思っていた。
私にそんな感情があるはずがない
と認めたくなかったのかも知れない。
「子ども時代の満たされなさは誰でもある。
満たされたい気持ちは誰もが持っている。」
Saoriさんのこの一言が突破口になった。
【誰にでもあること】と捉え方が逆転したことで
初めてそいつの“存在”を認め
向き合うべきモノとして目の前に
登場させることができた。
今振り返ると、これが本当の意味での
スタートになったと思う。