前回のセッションでは、
欠乏感は誰にでもあるということだったけれど、
その欠乏感のでき方は人によって違うらしい。
 
私たちが赤ちゃんから大人へと発達していく段階ごとに、
そのステージで満たされていくはずの感情というのがあって、
「満たされた」と感じられなかった時に、
そこに由来する欠乏感が発生するのだそうだ。
 
だから、
自分の完了していない感情が、
どのステージのものなのかを把握することが大切だ。
 
存在をただ受け入れて欲しい。
私の思いに共感してほしい。
 
私がこういう欠乏感を抱いているのは、
幼児期に無条件で親に温かく守られ
存分に甘えたという部分が抜けていたからだとわかった。

Saoriさんからのアドバイスは、
“無邪気な子ども”をすること。

私だって、そのままの自分で受け入れられたいよ。
でも、そんな大人は私の周りにいないじゃん。

そういう傷つきや悲しみを
自分で癒し満たしていくのだ、
とSaoriさんは言う。
 
そうすれば、
精神的な“土台”の弱かった部分が埋まり、
ちゃんと次のステージに上がっていける。

それを誰かに満たしてもらわなきゃ意味ないんだよ!
 
子ども時代にじゅうぶんに依存できないまま大人になったから、
私のココロは依存を渇望していた。
 
だけど、
ここに満たしてくれる人がいるわけでもなく、
満たしてくれそうな人が現れたと思っても
いなくなる。
 
自分で自分を満たす?
どうやって?

小さい時からずっとそうだった。
誰も私を助けてくれなかった。
なんでいつも私だけ
何でもかんでも自分でやんなきゃいけないの?!
なんで?!

持っていき場のない怒りと、
こんな惨めな気持ちを味わうために生まれてきたのか
というわけのわからなさと、
強烈な孤独感に押しつぶされてしまわないように、
自分で自分をただギューッとすることしかできなかった。

次のセッションまでの間に、
家族一人ひとりについて書きだしてみた。
 
あんなに
「〇〇してくれなかった」「〇〇と言われた」と
自分が受けた“被害”にばかり意識を向けてきたのに、
いざ書いてみると、
してもらったことや与えてもらったことの多さにも気づかされた。
 
そして、彼・彼女らの生い立ちを辿り、
どんな思いでそれぞれの人生を歩んできたのか想像してみると、
皆それぞれに、
苦労という一言では簡単に片づけられないような
厳しい境遇の中で、
一所懸命に生きてきたような気がした。

これが自分だったら、マジでキツイ。
彼は(彼女は)それをやってのけてきたのか…。

こんな視点が自分の中から出てきたのは意外だった。
 
みんな、
「なんで自分だけこんな思いをしなくちゃいけないんだ」
って思いながら、
必死に生きてきたのかな…?
 
そして、そんな大変な人生の中で、
“彼らなりのやり方”で私を大事にしてくれようと
したのかも知れないなと思った瞬間、
言いようのない感謝の思いと
尊敬の念が全身を駆け巡った。

私は愛されていないわけじゃなかった。

私が望んだ通りの形ではなかったから、
気づかなかったり受け取れなかったりしただけ。
やっと、やっと、それがわかった。

ほどなくして私は、
自己否定の感情に飲み込まれた。

ずっと一方的な見方で
被害者ぶってきた自分が
恥ずかしくて、情けなくて、自分の未熟さを呪う。

ありがとうと、ごめんなさいを、
行ったり来たり。 

意外にもSaoriさんは、この状況を
「その調子で大丈夫」と言った。
 
「人生が用意してくれた、
ストレッチをかける大切なレッスン期間。
そうやって伸びたり縮んだりしながら
心の器が広がっていくんだよ。」
 
当面、自己否定は繰り返しやってくるけど、
それでいい。

ただし、そこにい続けるのではなく、
そのループから出るという視点を持つこと。
 
ありがとうの自分も、ごめんなさいの自分も、
両方あっていい。
どちらの自分も丸ごと受け止める。
 
「ああ、今はそっちの気持ちなんだね。」と。
その気持ちをとことん感じ切る。

存在をただ受け入れて欲しい。
気持ちに共感してほしい。
 
これを、自分にやってあげる。
 
これこそが、
自分で自分を満たすということ…。